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元からこのブログは活発ではないが、"文字を綴るだけ"には飽きていた。
そもそも、読み書きをあまりして来なかった人間である自分には、書くだけというのがつまらないのは当然だった。
だから、次回予告的発言をしても僕がそれを守ることはなかった。
ワクワクしなかった。
けれど最近、そういう掃き溜めみたいな場所こそ価値があると感じた。
だから、久しぶりに内容の無い話をつらつらと書こうと思う。
できるだけ、掃き溜めの価値にも触れたいが、冗長になると思う。
うまく着地出来るかもわからない。
それでも、忘れないうちにごちゃごちゃと。
一
このところ、社会で起こる様々な『よくないこと』や、今置かれている自分の状況(バイトに近いことを週四回しているだけ)に疲れてしまっていた。
不安と焦りによる疲労。
仕事を一月以上休み、病院にも通い始めた。
検査の結果はまだ一ヶ月は先のようだ。
その間、辛いので家にずっといたかと言えば、決してそうではない。
一
僕にはやりたいこと、そしてやりたくないことがはっきりとある。
具体的ではないが。
人との関わりを避けてきた僕には、やはり人間関係というのは大変なものだと、働き出したこの十ヶ月(内一月以上は休んでいるが)で感じた。
ここでの大変とは、難しいというよりは疲れるが正しい。
特に頭の回らない午前中は、誰にも触れられたくない。
それは返しが出来ないので、話しかけられるのが辛いから。
人とのやりとりとは、気を使うことが多過ぎて本当にエネルギーが必要だ…。
そんな僕にとって、午前の作業をほぼ一人きりでできる今の職場は大きな救いだった。
だった。
僕が休む一週間程前、上司から業務場所の変更と週五勤務の相談があった。
仕事に慣れてきただろうから、近々場所を変えて頑張ってほしい、とのことだった。
履歴書に『慣れてきたら週五日で働きたい』と書いたのは自分だし、職場に認められた瞬間であるこの状況は普通喜ぶところだと思う。
人に認められた。
給料だって増えるのだ。
しかし、これを喜ぶ僕はそこにはいなかった。
てっきり僕はずっと、『自分は人に認められたい人間なのだ』とばかり思っていたが、どうやらそれは違ったらしい。
僕は、"生きていけるようになりたい"のだ。
そして、その"生きていけるようになる"に、『人に認められること』と『給料が増えること』は含まれないということになる。
ここでやっとやりたいことが出てくる。
僕は、休んだりサボったり怠けたりせず、普通に仕事が出来るようになれれば、それでいい。(僕の休みやサボりや怠けとは、頻度と質を踏まえると、決して誰にでもある普通の仕方ないことの範疇ではない。)
そして、今それを出来そうな環境かと問われて「yes」がすぐに出てこないのだ。
もっとわかりやすく言えば、心穏やかに生きていたいが、今はそれが出来ていないのだ。
それが出来ないのは、とても息がつまり、生きる意味さえも不透明にさせる。
生きる為に働くは、僕には仕方なく生きているへと変換される。
働く為に生きるは、仕事に満足しているごく僅かな人か、心まで奴隷になってしまった社畜の言葉だ。
つまらないには耐えられない。
向上心無いままに生きるのは虚しいだけだ。
だけど現実。
僕の体はなかなかいうことを聞かない。
だれる。
サボる。
休みの日に自分で決めた、自分がやりたいはずのこともロクに手がつかない。
僕はわがままなだけなのだろうか。
やる気のある僕は生きたいと言う。
向上心を持って。
色んなことに関心を持って。
出来るなら週五で働きたいし、もっと色んな体験をしたいから上司の相談も断らない。
やってみよう!と快諾。
やる気のない僕は逃げたいと言う。
体力がついていかない。
心が疲弊してしまう。
自分の実力以上の受け合い、過信を卑下し、グジグジウダウダ。
一
結局、自分が何かわからなくなるけど、同時にどうしようもなく人間なんだっていつも思う。
動いて、疲れて、傷ついて、立ち止まって、悩んで。
で、また動ければそれでいい。
焦るなよ、負けるなよって。
だって、まだ未完なんだから。
人である以上、嫌なこととか、いらないものとか吐き出さなきゃいけない。
捨てなきゃいけない。
やってけない。
僕は、ここに糞するみたいに糞みたいな文を書いて心を落ち着かせる。
そうやって掃き溜めを作るのは、決して悪いことじゃない。
誰かが見てくれた時に、後で自分で見返した時に、その土地(心)の肥やしにでもなれば、それでいいのかなと。
糞には糞の価値がある。
その糞を糧に、また動こうと思う。
やりたいことをしようと思う。
今朝、靴裏に糞がついていて不快になったんだけど、僕のこの糞を読んで同じように不快になったら、謝りたい。
紙で拭き取れるかはわからないけど、忘れるなり人にぶちまけるなり、なんでもして快便になってくれ。
じゃあまた。